2009-10-17

ドビュッシー研究、その1 (09/10/07)





『月の光』 ヴァイオリンとのデュオ







クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 - 1918年3月25日)フランスの作曲家である。長音階・短音階以外の旋法の使用、機能和声にとらわれない自由な和声法などを行った。 ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。
>>Wikipediaより引用



 卒論のテーマだったドビュッシー研究をほそぼそと続けようかなと最近考えています。


 一口にドビュッシー研究っていうと簡単なような気がしてくるのですが、一人の人間が一生をささげた(それも大天才が)音楽活動を紐解いていくわけですから、ある意味では小宇宙(ミクロコスモス)を探索するに等しい試みであるといえます。つまり、完全に理解しようと研究をスタートさせるとそれは最初から破綻することになるでしょうし、そもそもそういった研究アプローチは(音楽という領域においては)間違っていると個人的に考えているので、割と心の赴くままに、取りとめもなく?研究しようと思っています。というかもう研究機関に所属していないので、探求というべきでしょうか?
  いずれにせよ、個人的な関心に合わせてどんどん論点をジャンプさせたいのです(フランス流に)。それがドビュッシーの音楽性にも合っているような気がします。

私とドビュッシーとの出会いをふりかえるに、それはやはりピアノを習っていたことに由来しています。私は、5歳~17歳くらいまでピアノ教室に通っていましたが(そんなにうまくなりませんでした)、当時はモーツァルトやベートーヴェンなどのソナタ曲に惹かれることはなく、どちらかというとロマン派の標題が付いている単品の曲に魅力を感じていました。ショパンとか、リストですね。感傷的なのが好みだったのです。
 
 ドビュッシーに興味を持ったのも、その延長線上にあります。有名な『月の光』『アラベスク』に惹かれました。当時の印象としては、まず音が奇麗、そして響きが斬新、だけどある意味ではまとまっていて、さらに論理的、何といってもほかの作曲家と全然違う、というものでした。
  
 現時点では、音楽史の流れや理論的背景をかじったことで、割と客観的に西洋音楽史の中に位置するドビュッシーを眺めることができるようになりましたが、この当時の印象は今考えてもそれほど的外れではないように思います。




しかし、このような私が期待するドビュッシー像というものは、大学の後半戦にさしかかり、卒業研究の一環として彼に関する文献を読み始めると同時に裏切られることになりました。確かに、彼は音楽に「綺麗」な側面を付与することを重視しています。しかし、彼の美学はきらびやかさのみを目指したものではなく、どちらかというと人間の負の側面をえぐりだすようなテーマを数多く選び、またそういった作品をたくさん書いているのです。 
 
 ドビュッシーは、19世紀中ごろに一大金字塔を立てたボードレールの『悪の華』に始まる文学、その系譜につらなる詩人(有名どころではランボー、ヴェルレーヌ、マラルメなど)たちの作品を愛読し、そこから自らの音楽的思考、または音楽的イマージュを育んでいきました。つまり、彼の音楽が息づく精神的風土は19世紀末にフランスで流行した象徴主義文学にあるといえます。
 
 ドビュッシーは象徴主義文学における「ほの暗さ」(一言で暴力的に要約しようとするとこうなるようです)にとらわれたのです。






結論として、ドビュッシーの音楽を研究するためには、文学と音楽がクロスオーバーする領域(歌曲、オペラ)をかなり重視しなければなりません。このことに気がついた大学三年当時の私は、あまりの難題に血の気が引く思いでした。フランス語も道半ば、文学はほとんど門外漢だった私にとっては如何ともしがたい絶壁が目の前にそびえたっているような心もちでした。


 しかし、振り落とされながらもよじ登る途中で、世紀末流の暗く広大な地下世界に息づく文学作品に出会い、同時に、今となっては大のお気に入りの画家であるギュスターヴ・モローに魅了されるなど貴重な体験もありました。ついでに精神的に衰弱しました(笑)






 大学を卒業してしまっては制限時間もないので(死ぬまでには、もう少し何かを掴みたい?)、ドビュッシーと縁の深い19世紀末フランス文学を拾っていく作業というものも楽しみながらやっていけたらと考えています。というか、まずはプルーストの『失われた時を求めて』を読まないといけないですね、フランス文化探求者の教養として。


今回はこれで筆を置きます。

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